Yoko Ono

久しぶりに読書をした。

『今あなたに知ってもらいたいこと』オノ・ヨーコ著

うっとうしい啓蒙書の類いは、私にとって大の苦手なのだけれど、オノ・ヨーコさんから発せらた言葉は無視できないと思った。

平易な日本語で運ばれてくるオノ・ヨーコさんの思い・メッセージは示唆に富む内容。
耳元でささやくような文体はくりかえし読む度に新たな発見とともに春の息吹のようなすがすがしさを与えてくれる。

中でも「Bless you」と題された一章は異色の出来。以下、本文より引用。

…前に進もうとするのですが、私を押さえようとする人たちに足をひっぱられて動けない感じでした。
「これに負けてはいけない」
そんなとき、「このままでは自分がだめになってしまう」と思って、始めたのが人を「Bless」(祝福)することです。

(中略)

たとえば女性なら、お姑さんとうまくいっていないこともあるでしょう。あなたをいじめるということは、他にすることがないのです。かわいそうなお姑さんでもあるんですね。
だから、かわいそうだと思って「祝福」してあげてください。そうすると、あなたのお姑さんに対する態度が変わってくるでしょう。それによって、お姑さんのあなたに対する態度も変わってくるかもしれません。おもしろいと思いませんか?
あなたが祝福している相手が自分を愛してくれる、というのとは違います。そんな甘いことではなくて、敵を祝福するという難しいことをしたために、あなたがもう少し強い人間になったということです。そして、それを向こう側も感じないわけにはいかなかったということだと思います。
向こう側からバッシングされることが終わらなくても、あなたが相手を祝福してあげたことによって、あなたは強い健康な人間として前に進んでいくことができるようになったということです。

「Bless」するということは、概念を理解するだけでなく、日常的な行為として実践できそうだ。

「すぐにでもやろう」

そう思ったとき、次の言葉がふっと湧いてきた。

「ぼくはふと幸福ということについて考える。幸福はおそろしい。いつでも誰かを亡ぼす。誰かでなければ、自分を」寺山修司

「Bless」することは、確かに心の平和という幸福をもたらすだろう。
しかしながら、それは万人に与えられるものではない。幸福と滅亡は表裏一体だ。自分自身が滅びる危険性に怖じ気づいて「Bless」することをやめるべきか。

少なくとも私にとっては、否である。

私は、「Bless」する。

In The Country

相変わらず秀逸なジャケットのアートワークに惹かれて「ルーネ・グラモフォン(rune grammofon)」のアルバムがまた一枚私のコレクションに加わった。
「イン・ザ・カントリー」というピアノトリオの作品がそれである。
アルバムタイトルは”This Was the Pace of My Heartbeat”。
なんとなくそそられるフレーズである。加えて、ジャケットのスリーブに書かれた「リリカル」という言葉に反応して(ちょうどセンチメンタルな気分もあってか)ついつい購入してしまった。
フリージャズのように自由で爆発していないと刺激が足りないのか、このところほとんどピアノトリオを耳にしていなかったし、実際に聞いてみるまでは正直なところあまり期待していなかった。
ところが「イン・ザ・カントリー」は従来のピアノトリオに対するイメージを「美しく」壊してくれた。
これまで「美しい」という形容詞を様々な対象に当てはめてきたけれど、これは「美しい」と呼べる新しい対象の発見である。
限りなく真空に近い空間の中でかすかに揺れる微細な音の波動をピアノという楽器で静かに爆発させているようだ。
それはジャズ、ロック、クラシック、エレクトロニカ、現代音楽といった様々な領域から影響を受け、それを自分のものにすることができた希有な存在のみが作り出せる音だろう。
モッテン・クヴェニルという男が「イン・ザ・カントリー」の中心人物らしいが、今回のアルバムでは11曲中9曲が彼の作曲からなる。
ルーネ・クリストファーシェンのライナーノーツによれば、彼はキース・ジャレットは聴かなかったけれど(笑)、ポール・ブレイやモートン・フェルドマン等をさかんに聴き、影響を受けてきたという。
アルバムの最後に収められている曲はヘンデルの『涙が流れるままに』をベースに彼が編曲したものであるが、この「美しい」アルバムのラストを飾るにふさわしい出来映えだと思う。

Yan Tomita

「…でもそのかっこ悪さってちょっと視点をずらしてみるとかっこ良かったりするんだよね。その時に、自分の視点の外し方とか、裏側から見る感覚とかばっちり鍛えたね。だからさー、人の音楽を許すこともできるわけ。全然自分の興味のない音でも、僕がただ興味がないというだけの話で、僕以外に興味を持っている人たちはいるわけで、他者批判して内部充実みたいなことをしなくなったね。そこで初めて自分の中の可能性に気付いたんだよ。もう一回若返れたんだ。」
(GAZETTE4編『モンド・ミュージック』アスペクト、16ページ、ヤン冨田氏インタビューより)

ヤン冨田氏、恐るべし。

Shuzo Takiguchi

今夜は瀧口修造を読まなければいけないと思った。その必然性がどこからやってきたのか定かではないが、この偉大な超現実主義の詩人の言葉に自らをさらすことが必要だと思われたのである。
先日、実家に帰省した際に購入した『瀧口修造の詩的実験 1927-1937』が傍らにあったので、その中から詩を数編読んだ。夜もだいぶふけてきたとき、こんな詩が目に留まった。

ランプの中の噴水、噴水の中の仔牛、仔牛の中の噴水、噴水の中のランプ

私は寝床の中で奇妙な昆虫の軌跡を追っていた
そして瞼の近くで深い記憶の淵に落ち込んだ
忘れ難い顔のような
眞珠母の地獄の中へ
私は手をかざしさえすればいい
小鳥は歌い出しさえすればいい
地下には澄んだ水が流れている

卵形の車輪は
遠い森の紫の小筐に眠っていた
夢は小石の中に隠れた

この詩の標題は『睡魔』である。瀧口さんの「夢の記述」の試みのひとつとみていいだろうか。純粋なポエジイがキラキラしている。

Gil e Jorge

友人に紹介されて聞きはじめた「カエターノ・ヴェローゾ」。
『ユリイカ』のバックナンバーで本人の特集号が発刊されていることを見つけ、早速取り寄せる。
このことをきっかけに、にわかにブラジル音楽に対する熱が高まってきている。
思い起こせば、ECMレーベルの音源をさかんに蒐集していたころ、ナナ・ヴァスコンセロス、エグベルト・ジスモンチなどを通じてブラジルの音には接していたし、なかんずくジョアン・ジルベルトやアントニオ・カルロス・ジョビン、バーデン・パウエルなどボサノヴァ最強軍団は当然ながら耳にしていた。
しかし、どうして「カエターノ・ヴェローゾ」には辿り着かなかったのだろう。
ポピュラー音楽にくくられるから?
失った時間を取り戻そうと、必死になって彼の音楽を聴いている(必死になって聴く音楽ではないのだけれど)。
先の『ユリイカ』に掲載されているディスコグラフィーを参考にしながら、とりわけ名盤と呼ばれているアルバムから少しずつ集め始めている。
同じ『ユリイカ』の中で、中原仁さんのインタビューにこたえて、ジルベルト・ジルのことを「ぼくの先生のようだ」と評している言葉が目にとまった。ならば、今度はジルベルト・ジルを聴くしかない。
私が最初に手にしたアルバムは『Gil e Jorge(ジルベルト・ジルとジョルジ・ベン)』。最初にこのアルバムに出会えたことは幸運だった。
タイトルが示す通り、二人の共演盤である。両者のボーカルとギターを互いに交差させながら淡々と進行してゆく。そこにはブラジルという土着性とコスモロジー的な浮遊感に満ちあふれた空間が見事に演出されている。
しかしそれは計算されたものではなく、ふたつの稀有な才能の邂逅そのものである。聴く者に緊張感を強いることなく、豊かなミニマリズムが実現されている。

Caetano Veloso

エッセイストで翻訳家の岡本太郎さんがこんなことを書いていた。
『ブラジル・ポルトガル語はあまくてやわらかい。
そしてちょっとねばっこい。キャラメルみたいだ。
もしかするとキャラメル・フレイバーのコーヒーかもしれない。(中略)おまけにしなやかだ。
アフリカの草原に棲む大型や中型のネコたちのようによくしなる。』
(ユリイカ 2003年2月号)

カエターノ・ヴェローゾの歌声を聴いていると、まさにこの表現があてはまる。
おかげで、ひとつの日課ができた。
夜、眠る前に彼の声をしっとりと聴くのである。
風呂上がりに部屋の電気をすべて消す。
小さなボリュームでカエターノのポルトガル語に耳を傾ける。
アルコールも煙草もいらない。
ただ床にゴロンと寝て、わずかばかりの睡眠薬とともにゆらりゆらりと眠りに落ちる。
「あまくてやわらかい」眠りに落ちる。

Bangkok

バンコクの中心部を東西に走るスクンビット通りと南北に走るエカマイ通りとがちょうど交わる場所に面白いカフェを見つけた。
コンデンスミルクをカップの底に沈めたタイ式コーヒーを注文したところ、一緒にジャスミンティー茶が差し出されたのだ。
日本の慣習からすると考えにくい取り合わせに戸惑いつつ、怪訝な顔つきでテーブルについた。
席はほぼ満席の状態だった。試験が近いのか、制服を着た学生さんたちがその他のテーブルを占領して、勉強にいそしんでいる。
こういった賑わいは、このカフェが地元の若者に受け入れられていることを何も言わずに教えてくれる。
果たして、異国の地のその取り合わせは上手い具合にお互いの風味を引き立てていた。
差し出された二杯のカップのおかげで一見の客にもかかわらずそのカフェに長居することができた。
悠々閑々とガイドブックを頼りに次の行き先を探しながら、とあるタイ式マッサージのお店が目に留まった。
そこは目の不自由な人たちの経済的・社会的自立を目的に設立されたお店であるらしい。
あらためて地図で場所を調べてみると、そこはエカマイ通りを挟んで、私のいるカフェの向かい側ではないか。
飲みかけのジャスミンティーをそのままに、私はそそくさとカフェを後にした。

ものの本によれば、タイ式マッサージとは次のようなことになる。
「人間の体には「セン」と呼ばれる気の流れのようなものがあり、これが滞ると健康が損なわれる。
そのためにマッサージで「セン」を刺激することによって、体の働きを正常に戻そうというのがタイ式マッサージの根本思想だ。」
いわゆる健常者によるタイ式マッサージをこれまで経験してきたが、盲人のそれはあきらかにいままでと異なっていた。健常者は視覚と触覚というふたつのセンサーによって「セン」を探し出すのだが、一方で、盲人には触覚というたったひとつのセンサーしか与えられていない。健常者のマッサージ師はときとして(無意識のうちに)触覚よりも視覚を優先させて「セン」を探し当てようとしているのかもしれない。
そのときにちょっとしたズレが生じることがある。つまり「セン」を見誤ってしまっているのだ。
しかし、盲人が「セン」を外すことはなかった。あらかじめ五感が準備されていることを当然のことのように過ごしてきた私にとってこのことは衝撃だった。
盲人の手は繭のように柔らかく、私の数十倍もの神経細胞を指先に集中させていた。
これまで世界の歴史は視覚による情報としてつづられてきたと言っても過言ではないほど、「目に写った出来事」が描写されて続けてきた。
しかし、バンコクの盲人から、それとは全く異質の価値観をつきつけられた思いがした。

Shigesato Itoi

ずいぶんと前のことになるが、『ほぼ日刊イトイ新聞』にこんなコメントが寄せられていた。

やるべきことをやり、言うべき主張は言い、ひとつの会社で仕事をした後に、「こういうところは、もう変わらないだろう」という結論が出てしまったら、どうするべきか、という話は、優秀な人であろうということがわかるだけに、いろんなことを考えさせられました。似た境遇にいる方も、いそうですよね。
「働く」ということはいろんな事情が絡まるだろうから、気に食わないからすぐにやめるわけにもいかない人がほとんどでしょうし、やめた後になって、むしろ、余計にたいへんなことになったという人だって、多いだろうし……
現実に、社会や会社で主導権を握っている人からしてみれば「弱音」に見えるような、大勢の人が真剣に悩んでいることは、他にも、ごろごろ転がっているのでしょうね。

ドキリとした。私は無名であり、決して優秀な人間ではないけれど、「こういうところは、もう変わらない」という現実にいま直面しているし、さらに「やめた後になって、むしろ、余計にたいへんなことになったという人」である。自分の夢を追いかけたつもりが裏目に出て、とても苦しい状況に陥っている。

Eddie Cano

小林径さん(ルーティンジャズ系)、須永辰緒さん(夜ジャズ系)など、クラブジャズの原石。

エディ・カノさん(Eddie Cano)の極上ライヴ、『BROUGHT BACK LIVE FROM P.J.’S』 です。

すべての鍵盤からリズムを巻き起こすような弾きっぷりにホレボレしてしまいます。

おいしいフレーズ、かっこいい曲が泉のごとく溢れては流れていく空気とシンクロするかのように、オーディエンスもとてもつなく熱い!

リズムセクションとの連係プレイもまた、猛烈に興奮させてくれます。

ママス&パパス『MONDAY MONDAY』などを素早くカヴァーするセンスもさすがですが、極めつけはやはりオリジナル曲、とりわけ『I CAN’T CRY ANYMORE』、『I’LL NEVER FORGET YOU』といったところでしょうか。

泣かせるメロディ、美しいタッチと力強いリズム。

この日の P.J.’s はフロア中が揺れていたにちがいありません。

P.S.
このライヴが行われた年が、筆者の生まれた年。
エディ・カノさんの命日が筆者の誕生日と同じ。
はたして、輪廻転生はあるのでしょうか?

Lee Friedlander

コンポラ写真の代表格、リー・フリードランダーさん(Lee Friedlander)の作品集『Self Portrait』から。

自身の「影」をセルフポートレートに見立てた写真。

お茶目なのか、真面目なのか、偶然なのか、狙ったのか…。

それにしても、上手すぎる。

ゾクッとくる「影」がページをめくるたびに次々と現れてきます。

気負わないスタイルは、真似しようとしても、フリードランダーさんのオリジナリティあふれる世界の牙城は崩せないでしょう。

一昨年、MoMA(ニューヨーク近代美術館)でも大回顧展が開かれたとの由。

ぜひとも、日本にも巡回してほしい作家さんです。