これは言ってはいけないことかもしれませんが、「夭折(ようせつ)」という言葉にはどこか魅惑的な響きがあり、ひとを語る上での形容詞として、何か特権的な匂いを感じるのは私だけでしょうか。美術であれ、文学であれ、音楽であれ、時代を疾走した痕跡が完璧なほどに「美」を極めていたとしたら、この言葉は、寄る辺なさと背中合わせの自由、あるいは、期待のときめきとともに不安なおののきをともなった、嵐の先触れめいた不穏な予感を与えます。しかも強烈に…。
ドイツの文芸評論家、ウォルター・ベンヤミンさん(Walter Benjamin)。彼が偏愛した画家パウル・クレーさん(Paul Klee)の絵画「新しい天使」に言及して、自身の著書の中でこう書き綴っています。
「新しい天使」と題されたクレーの絵がある。そこで描かれている天使は、何かから遠ざかろうとしているように見えるが、天使はその何かをじっと見つめている。彼の眼は見開かれ、口は開き、翼は拡げられている。歴史の天使はこんな姿をしているにちがいない。彼は顔を過去へと向けている。われわれには事件の連鎖が見えるところに、彼は破局のみを見る。破局は絶え間なく瓦礫を積み重ねていき、瓦礫は彼の足下にまで飛んでくる。彼はそこに留まり、死者たちを目覚めさせ、粉々に破壊されたものを寄せ集めて組み立てたいのだが、楽園から強風が吹いてきて彼の翼をふくらませ、その風があまりにも強いので、彼はもう翼を閉じることができない。この強風によって、天使は抗うこともできずに、彼が背を向けている未来へと運ばれる。その間にも、彼の目の前の瓦礫の山は天に届くばかりに堆くなっていく。われわれが進歩と呼ぶのはこの強風のことである。
1971年、41歳の若さでこの世を去った夭折のデザイナー、ジョエ・コロンボさん(Joe Colombo)。彼の人生こそ、「新しい天使」にも似て、エフェメラルであることを宿命づけられていたというのは言い過ぎでしょうか。あまりにも短命。あまりにも多作。コロンボさんは、きっと「強風」によって「未来」に運ばれた人なのでしょう。
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