「歴史には目的がない。
もちろん、人生にも目的なんかありません。
それを作り出してゆくのが、日々の営みだといえるでしょう。
価値観は経験のあとでつけ加えられるものです。
生きたいように生きるのがいいのであって、それをことさらに「虫けらのごとく」などと卑下するのも無用だと思います。
ぼく自身についていえば、ぼくはいつでも病気に取りつかれています。
それは「人類が最後にかかる希望という名の病気」です。」
「キャロル・リード監督の映画『第三の男』の中で、主人公が昇降機から地上を見おろし、「どうだい、人間がアリのように小さく見えるだろう?」というシーンがありました。
「あの中の、君の知らないひとりの人間が死んだら、君に200ドルやるといえば、喜んでもらうかい?」と。
ぼくらは自分の気づかぬところで、他人の犠牲の上に立って生きているのだということもできます。
ひとりの人間が生きるためには万物のどの部分かを殺さなければならぬ、というのが自然の哲理だからです。
だが、あらゆる思想は、その実現のためには人間のエゴイズムを利用しなければならぬ – ということもぼくは知っています。
人間が人間を「救済」できるというのは幻想なのです。
だれかを救うために、ほかのだれかを滅ぼす。
それが、生の営みというものです。
くよくよせずに、自分の「方法」を持つこと。それがいちばん自分に合っている – とぼくは思っています」
寺山修司『寺山修司から高校生へ – 時速100キロの人生相談』
心に残ったので、この二節を書き留めておく。
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