Bangkok

バンコクの中心部を東西に走るスクンビット通りと南北に走るエカマイ通りとがちょうど交わる場所に面白いカフェを見つけた。
コンデンスミルクをカップの底に沈めたタイ式コーヒーを注文したところ、一緒にジャスミンティー茶が差し出されたのだ。
日本の慣習からすると考えにくい取り合わせに戸惑いつつ、怪訝な顔つきでテーブルについた。
席はほぼ満席の状態だった。試験が近いのか、制服を着た学生さんたちがその他のテーブルを占領して、勉強にいそしんでいる。
こういった賑わいは、このカフェが地元の若者に受け入れられていることを何も言わずに教えてくれる。
果たして、異国の地のその取り合わせは上手い具合にお互いの風味を引き立てていた。
差し出された二杯のカップのおかげで一見の客にもかかわらずそのカフェに長居することができた。
悠々閑々とガイドブックを頼りに次の行き先を探しながら、とあるタイ式マッサージのお店が目に留まった。
そこは目の不自由な人たちの経済的・社会的自立を目的に設立されたお店であるらしい。
あらためて地図で場所を調べてみると、そこはエカマイ通りを挟んで、私のいるカフェの向かい側ではないか。
飲みかけのジャスミンティーをそのままに、私はそそくさとカフェを後にした。

ものの本によれば、タイ式マッサージとは次のようなことになる。
「人間の体には「セン」と呼ばれる気の流れのようなものがあり、これが滞ると健康が損なわれる。
そのためにマッサージで「セン」を刺激することによって、体の働きを正常に戻そうというのがタイ式マッサージの根本思想だ。」
いわゆる健常者によるタイ式マッサージをこれまで経験してきたが、盲人のそれはあきらかにいままでと異なっていた。健常者は視覚と触覚というふたつのセンサーによって「セン」を探し出すのだが、一方で、盲人には触覚というたったひとつのセンサーしか与えられていない。健常者のマッサージ師はときとして(無意識のうちに)触覚よりも視覚を優先させて「セン」を探し当てようとしているのかもしれない。
そのときにちょっとしたズレが生じることがある。つまり「セン」を見誤ってしまっているのだ。
しかし、盲人が「セン」を外すことはなかった。あらかじめ五感が準備されていることを当然のことのように過ごしてきた私にとってこのことは衝撃だった。
盲人の手は繭のように柔らかく、私の数十倍もの神経細胞を指先に集中させていた。
これまで世界の歴史は視覚による情報としてつづられてきたと言っても過言ではないほど、「目に写った出来事」が描写されて続けてきた。
しかし、バンコクの盲人から、それとは全く異質の価値観をつきつけられた思いがした。


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