Leo Lionni

ちょっと かわった のねずみの はなし

うしが ぶらぶら あるいてる。うまが ぱかぱか はしってる。

そんな まきばに そって、ふるい いしがきが あった。

なやにも サイロにも ほどちかい、その いしがきの なか、

おしゃべり のねずみの いえ。

けれど おひゃくしょうさんが ひっこして しまったので、

なやは かたむき、サイロは からっぽ。そのうえ、ふゆは ちかい。

ちいさな のねずみたちは、とうもろこしと

きのみと こむぎと わらを あつめはじめた。

みんな、ひるも よるも はたらいた。

ただ フレデリックだけは べつ。

「フレデリック、どうして きみは はたらかないの?」みんなは きいた。

「こう みえたって、はたらいてるよ。」と フレデリック。

「さむくて くらい ふゆの ひの ために、

ぼくは おひさまの ひかりを あつめてるんだ。」

そして また、フレデリックが すわりこんで、まきばを じっと みつめて いると、

みんなは きいた。「こんどは なに してるんだい、フレデリック?」

フレデリックは あっさり こたえた。

「いろを あつめてるのさ。ふゆは はいいろだからね。」

また あるひ、フレデリックは、はんぶん ねむってる みたいだった。

「ゆめでも みてるのかい、フレデリック。」

みんなは すこし はらを たてて たずねた。

「ちがうよ、ぼくは ことばを あつめてるんだ。

ふゆは ながいから、はなしの たねも つきて しまうもの。」

『フレデリック』
さく レオ・レオニさん(Leo Lionni)、やく たにかわしゅんたろうさん

いい おはなし ですよ。
きょうみの あるかたは ぜひ つづきを えほんで。

P.S.
谷川俊太郎さんのはしがき。

「翻訳にあたっては、原本のもつ視覚的な美しさを損なわぬことを、まず第一に心がけました。
文章のレイアウトを、できるだけ原本どおりにするために、その内容の一部を省略せざるを得ない場合もありましたが、これは俳句的な凝縮された表現を好む日本人には、かえってふさわしいと考えています。」

言葉の世界だけではない、視覚のポエジーにも目端の利いた谷川俊太郎さんは、やっぱり超一線級です。

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Edvard Munch

Work in his later years of Edvard Munch, “Self-portrait. Between the clock and the bed”.

I sympathize with this painting rather than his representative work “The Scream”.

エドヴァルド・ムンクの晩年の作品、「時計とベッドの間の自画像」。

私は、この作品にシンパシーを覚える…

「叫び」以上に。

Luchino Visconti

ルキノ・ヴィスコンティ(Luchino Visconti)は私が敬愛する映画監督のひとりであるが、つい先日、植草甚一さんのエッセイを読んでいて、彼がイタリアの「貴族」であることを初めて知った。それでふと合点がいったのだけれど、そういう出自というか素地がなければ、あのような退廃の美しさは生まれなかっただろう。『家族の肖像』しかり、『ベニスに死す』しかりである。映像の中に表現される重厚なディテールは彼のように選ばれた者にしか表現しえないものなのだろう。
そんな彼にはルイジとエドゥアルドという兄弟がいるらしい。エドゥアルドは大実業家で、イタリア第二の薬品工場を経営しており、一番うえのルイジは競馬騎手として優勝カップを400個も獲得したというスポーツマンとのことである。これだけでもヨーロッパの名門貴族の生き方が垣間見えて面白い。
こういった恵まれた背景を持ちながら、最晩年まで表現者としてあり続けた彼の精神に私はいたく感銘を受ける。彼とはまったく異なる領域で活躍した音楽家の言葉がいみじくもルキノ・ヴィスコンティの生き方を代弁しているかのようなので最後に引用しておこう。
『音楽会に来る人たちのなかには、そとで食事をするのをひかえたり、ネクタイを買わないで切符を手に入れる人がいるのです。そういう聴衆を満足させるためには、テクニックだけでなく、人間的な楽しみをあたえなければなりません』。
これはジュリアード音楽院で40年もの間、ピアノを教え続けたロジナ・レービン女史の言葉である。

出典:植草甚一スクラップブック『アンクルJの雑学百科』晶文社、p104、p164

Kyrie Kristmanson

このPVいいですよ。キリエ・クリストマンソンさん(Kyrie Kristmanson)。タイトル『Song X』。すっかり見逃してました。もう10ヶ月も前に投稿されていたんですねぇ。。。
慌てて、この曲が収録されているアルバム『ORIGIN OF STARS』を買いました。どうやら国内には在庫がない模様。で、amazon.co.ukで買いました。スタジオ録音ヴァージョンの『Song X』はリヴァーヴを効かせた音作りで高感度大です。
ちなみに、NO FORMATでもスタジオ録音版を視聴できます。
ネット上に日本語の情報があまりないので、不確かなところもありますが、専門筋からの評価も高いようで、今後が多いに期待できる新人さんです。
LISTEN!

Dane Lovett

この作家さん、ステキですね。

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Jeb Loy Nichols

ジェブ・ロイ・ニコルズさん(Jeb Loy Nichols)。
優れたシンガー・ソングライターであると同時に、味わい深い作品を残してきた木版画家でもあります。
そして、おそらく「ユルい」という形容詞が市民権を得る前からそれを実践してきた人物でもあります。

ジェブとの出会いは、2002年リリースの『easy now』。鼻声ヴォーカルが文字通りユルいです。でも、そこにわざとらしさなどなく、フツーに発声したらこうなったという極めて自然体のスタイルにはまりました。

で、最新作の『Long Time Traveller』。レゲエです。
彼自身曰く、
「このアルバムはカントリー色の強いものになるはずだった。でも、音を聞いているうちに70年代のレゲエに近い気がしてね。オールドスクールな雰囲気に仕上げることを意識しながら制作したんだ。そもそも、ぼくはレゲエとカントリーとの間に共通性を感じていたんだ。」
なるほど聴いて納得のコメントです。

決して派手さはありませんが、じんわりと染み入る好盤です。

Yoko Ono

久しぶりに読書をした。

『今あなたに知ってもらいたいこと』オノ・ヨーコ著

うっとうしい啓蒙書の類いは、私にとって大の苦手なのだけれど、オノ・ヨーコさんから発せらた言葉は無視できないと思った。

平易な日本語で運ばれてくるオノ・ヨーコさんの思い・メッセージは示唆に富む内容。
耳元でささやくような文体はくりかえし読む度に新たな発見とともに春の息吹のようなすがすがしさを与えてくれる。

中でも「Bless you」と題された一章は異色の出来。以下、本文より引用。

…前に進もうとするのですが、私を押さえようとする人たちに足をひっぱられて動けない感じでした。
「これに負けてはいけない」
そんなとき、「このままでは自分がだめになってしまう」と思って、始めたのが人を「Bless」(祝福)することです。

(中略)

たとえば女性なら、お姑さんとうまくいっていないこともあるでしょう。あなたをいじめるということは、他にすることがないのです。かわいそうなお姑さんでもあるんですね。
だから、かわいそうだと思って「祝福」してあげてください。そうすると、あなたのお姑さんに対する態度が変わってくるでしょう。それによって、お姑さんのあなたに対する態度も変わってくるかもしれません。おもしろいと思いませんか?
あなたが祝福している相手が自分を愛してくれる、というのとは違います。そんな甘いことではなくて、敵を祝福するという難しいことをしたために、あなたがもう少し強い人間になったということです。そして、それを向こう側も感じないわけにはいかなかったということだと思います。
向こう側からバッシングされることが終わらなくても、あなたが相手を祝福してあげたことによって、あなたは強い健康な人間として前に進んでいくことができるようになったということです。

「Bless」するということは、概念を理解するだけでなく、日常的な行為として実践できそうだ。

「すぐにでもやろう」

そう思ったとき、次の言葉がふっと湧いてきた。

「ぼくはふと幸福ということについて考える。幸福はおそろしい。いつでも誰かを亡ぼす。誰かでなければ、自分を」寺山修司

「Bless」することは、確かに心の平和という幸福をもたらすだろう。
しかしながら、それは万人に与えられるものではない。幸福と滅亡は表裏一体だ。自分自身が滅びる危険性に怖じ気づいて「Bless」することをやめるべきか。

少なくとも私にとっては、否である。

私は、「Bless」する。

Wilderness

いま一編の小説を読み終えようとしている。
60年代の新宿歌舞伎町を舞台に描かれたその小説は、その活き活きとした描写によって、作中の人物にもかかわらず彼らに同化してしまったかのような錯覚をおぼえる。
悲しい運命を背負った登場人物たちが、凍てついた世間に対して無言の抵抗を振りかざすかのように、己の力を漲らせている様に私は共感を憶えずにいられない。

『あゝ、荒野』と題されたその小説は寺山修司さんが初めて取り組んだ長編小説である。
もともと66年に初版が刊行されていたが、この度、森山大道さんの200枚を超える写真を伴ってめでたくPARCO出版より再版された次第である。
森山さんのレンズを通してとらえられた60年代の風景は寺山さんが戦っていた時代を見事に現代に蘇らせてくれた。そして、なにより60年代の時代の空気を私たちに追体験させてくれた。
「あとがき」の中で寺山さん本人が述べているように、この小説は緻密な計算のもとにプロットをあらかじめ設定したうえで書き綴ったのはなく、あたかもジャズのインプロヴィゼーションの手法を小説に取り込むがごとく、大雑把なストーリーだけを決めておいて、あとは即興描写によって書き進めていったという。
その効果は十二分に発揮され、読み手としても時速数百マイルのスピードで600ページを超えるボリュームを一気阿世に突き進むことができた。
そんな手法を使いながらも、寺山さん独特のメタファーやレトリック、ドラマツルギーもあいかわらず気が利いている。
小説は佳境に入っているが、寺山さんのインプロヴィゼーションはどんなかたちで終演を迎えるのだろう。

Hope Sandoval

気分が沈んでいるとき、カタルシスを求めてダウナーな音楽を聴くか、片や対照的にポップな音楽で自らを高揚させるか、人によって大きく分かれるところだろう。
私の場合、メランコリックな気分に陥ったときはほぼ前者の行動をとる。
しかしこのような行動パターンはいまの病気に端を発しているわけではない。
メランコリックな状態にあることが単純に好きなのだ。
要するに、私は自己愛人間であり、ナルシストということになる。
このような習性は厄介だけれども持って生まれた性分だからいかんともし難い。
おまけに執着心が強いときているから、周囲からしてもまったくもって疎ましい存在にちがいない。

さて、自分の性格ばかり並びたてても面白くないので、ここはひとつ最近聞いたお気に入りのアルバムをひとつ挙げておくことにしよう。
アーティスト:ホープ・サンドヴァル(Hope Sandoval & The Warm Inventions)。
アルバムタイトル:バヴァリアン・フルーツ・ブレッド(Bavarian Fruit Bread)。
この中の一曲『On the Low』が映画『sprout』のサントラに使われていたのを見つけて、このアルバムに辿り着いたという次第である。その曲のヴォーカルとメロディーからアルバム全体の構成をダウナーなものと勝手に想像していたのだけれど、その予想をはるかに上回る内容だった。
冒頭に、「ダウナーかポップか」という大雑把なくくりをしたけれど、そんな自分がちょっと恥ずかしくなった。というのも、このアルバムはダウナーであるばかりでなく、ポップの要素も多分に盛り込まれ、それがちょうどいい具合にミックスされている。
両者は同根のニ輪の花であることを見事に証明してくれた。
ゲストも多彩で、私の愛するレーベル、ルーネ・グラモフォン(rune grammofon)からアルバムをリリースしているノルウェーのトランペッター、アルヴェ・ヘンリクセン(arve henriksen)の参加をはじめ、トラッド・フォーク/音響/テクノ系前衛ジャズなどのミュージシャンが集結している。
ライナーノーツによれば、ホープ・サンドヴァルはオスロに自身のスタジオを所有しているらしい。そんなロケーションの効果もこのアルバムには表れているはずだ。
久しぶりにおいしいアルバムを手に入れた。

Jin’ichi Uekusa

今、読んでいる本に面白いエッセーがあったのでそのまま転載しておこう。
タイトルは「ギュスタブ・エッフェルの逸話」。

エッフェル塔が美しいか醜いかという議論は、ほぼ20年ごとにむし返されるといい、このエピソードを集めた面白い記事が、サタデー・イブニング・ポスト誌8月11日・18日号にのった。
よく引用される笑い話だが、毎日かかさずエッフェル塔にあがり、その料理店で食事をすると、チップをはずんで降りていく金持の紳士がいるので、ある日ボーイが『毎度ありがとう存じますが、毎日おいでになるというのは』と口をすべらせたところ、『こいつを見ないで食事できる店は、ここにしかないからだ』といわれた。
おなじようなエッフェル塔ぎらいの有名人に、デューマ、ユイスマンス、ヴェルレーヌ、ランボー、マラルメがいたが、ひいき筋には、アポリネール、ユトリロ、デュフィのほか、コクトー、ルネ・クレールがいる。
こんな話からギュスタブ・エッフェルの一生へはいっていくが、ニューヨークの入口にある「自由の女神」の骨組設計も彼がやったのであって、死ぬまえに『エッフェル塔だけしか思い出してくれないのか』といったそうだが、ほかにもあまり知られていない話が、いくつも出てくる。

植草甚一スクラップブック『アンクルJの雑学百科』114p-115p、晶文社

In The Country

相変わらず秀逸なジャケットのアートワークに惹かれて「ルーネ・グラモフォン(rune grammofon)」のアルバムがまた一枚私のコレクションに加わった。
「イン・ザ・カントリー」というピアノトリオの作品がそれである。
アルバムタイトルは”This Was the Pace of My Heartbeat”。
なんとなくそそられるフレーズである。加えて、ジャケットのスリーブに書かれた「リリカル」という言葉に反応して(ちょうどセンチメンタルな気分もあってか)ついつい購入してしまった。
フリージャズのように自由で爆発していないと刺激が足りないのか、このところほとんどピアノトリオを耳にしていなかったし、実際に聞いてみるまでは正直なところあまり期待していなかった。
ところが「イン・ザ・カントリー」は従来のピアノトリオに対するイメージを「美しく」壊してくれた。
これまで「美しい」という形容詞を様々な対象に当てはめてきたけれど、これは「美しい」と呼べる新しい対象の発見である。
限りなく真空に近い空間の中でかすかに揺れる微細な音の波動をピアノという楽器で静かに爆発させているようだ。
それはジャズ、ロック、クラシック、エレクトロニカ、現代音楽といった様々な領域から影響を受け、それを自分のものにすることができた希有な存在のみが作り出せる音だろう。
モッテン・クヴェニルという男が「イン・ザ・カントリー」の中心人物らしいが、今回のアルバムでは11曲中9曲が彼の作曲からなる。
ルーネ・クリストファーシェンのライナーノーツによれば、彼はキース・ジャレットは聴かなかったけれど(笑)、ポール・ブレイやモートン・フェルドマン等をさかんに聴き、影響を受けてきたという。
アルバムの最後に収められている曲はヘンデルの『涙が流れるままに』をベースに彼が編曲したものであるが、この「美しい」アルバムのラストを飾るにふさわしい出来映えだと思う。