Taki Koji

多木浩二さん。

その才能は、あまたある日本の日本の思想家、批評家のなかで、ずば抜けているのではないかと思います。

硬質な文体でありながらも、対象に向けた流麗な視線は他と一線を画しているのではないでしょうか。

無名・著名、新人・ヴェテランまで、多木さんに批評の対象とされれば、作家としてまさに「本望」です。

難解な言葉や、意味不明な隠喩で読者をけむに巻く現代思想のなかで、「ストレート・フォト」ならぬ首尾一貫した「ストレート・哲学」は批評という領域において、極めて異質な(本来ならば、これが本質であってほしいと思いますが…)ポジションを獲得しています。

多木さんの代表作『写真論集成』から引用します。

– –

私がマン・レイの写真に興味を抱きはじめたのは、有名なレイヨグラフやソラリゼーションからではなかった。勿論、マン・レイを理解しようとすれば、これらを除いては考えられないし、そこにマン・レイの芸術の秘密がかくれているのも事実だろう。しかしそのレイヨグラフやソラリゼーションが現在もなお魅力をもちつづけているかといえばそうではない。技法としてみればそれはもはや陳腐である。ところが、マン・レイのいわばストレートな「写真」は、現在でも素直に新鮮なものとして受け取れる。この事実は前衛の美術と写真表現の差異を物語っているようで興味深い。
(中略)
ストレートな写真のなかで、数も多く、写真家としての才能を充分に発揮しているのは友人たちのポートレイトである。かれの仲間のダダイスト、シュルレアリストたちはいうまでもないが、ピカソ、ブラック、コクトーなど、当時のパリの芸術家たちの容貌が写真に残されることになった。これらの写真は、ためらいもなく明快で、さり気なく見える。
(中略)
マン・レイのポートレイトを写真史上で評価すれば、十九世紀のナダールと並ぶものと私は考えている。もちろんナダールの方は根っからの職業写真家だった。しかし同時代の生き生きとした芸術家の肖像を残したこと、たんなるポートレイトという以上の意味に達していたことはよく似ている。そのナダールに較べると、マン・レイの方がはるかに自在であり、想像力の自由さがあり、技巧的でもある。滑稽なまでの気取屋でふざけているように思われかねないダリは、本当は知性的な人間でもあった。マン・レイはそれを見逃してはいなかった。
(以下、略)

– –

多木さんの冷徹かつあたたかい眼差しの一端を読み取っていただければ幸いです。


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