East Berlin

先日、「全国ジャズ喫茶必需品」としてご紹介させていただいたロルフ・キューンさん(Rolf Kuhn)の幻の名作『SOLARIUS』の翌々年に録音された『East Berlin 1966』をもとに、東ヨーロッパにおけるジャズ事情について、もう少し深く掘り下げてみたいと思います。

すでにベルリンの壁が崩壊して20年近い時が経ちますが、この時代に生きた人々、とりわけ東ヨーロッパのミュージシャンにとって、この5年前の1961年につくられた壁は、自分たちの不自由をいまさらながら象徴するものだったにちがいありません。

この時代のヨーロッパのジャズは、冷戦時代であったにもかかわらず、意外にも東西の交流が行われていました。ジャズが虐げられた人々の音楽というイメージが作用したのかもしれませんが、資本主義の盟主アメリカの代表的な文化であったにも関わらず、東ヨーロッパでは寛容であったようです。

たとえば、この冷戦下に国際ジャズ連盟という世界組織がつくられ、その本部はウィーンにありました。ジャズ・ミュージシャンもたくさん訪問し、東西のミュージシャンの交流もさかんに行われていたと聞きます。

むろん、それだけで、共産主義体制の国々で、ジャズが盛んであったとは言えません。ロルフ・キューンさんの弟、ヨアヒム・キューンさん(Joachim Kuhn)の回想によれば、東ドイツで初めての公式なジャズ・クラブがポツダム市でオープンしたのが、この前年の1965年で、それまでミュージシャンは、ダンス音楽などを演奏しながら生きていたといいます。

たくさんのジャズ・ミュージシャンはいましたが、それだけで生活はできなかったのが実情のようです。どうしてもジャズをやりたかったキューン兄弟は、よりジャズが盛んなポーランドやチェコスロバキアに行くしか道はありませんでした。

そういった交流が東ヨーロッパにはあったのです。そして、その交流を通して、ジャズは東ヨーロッパの中で静かに沸騰し、ジャズ・ミュージシャンのレベルの高さを生み出していきました。

「鉄のカーテン」の向こう側、冷たい世界だからこそ、ジャズは人々の音楽の心を燃やしたのだと思います。

このような背景を振り返りながら、ロルフ・キューンさん達の音に耳を傾けると、「静かに沸騰」する高邁な精神性を少なからずたぐりよせることができるのではないかと思います。
(参考:『East Berlin 1966』ライナーノーツ)


投稿日

カテゴリー:

,

投稿者:

タグ:

コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です